ブランディングの第一歩は、モバイルの看板「名刺」から始まる。

「名刺はモバイルの看板。すべてがギュッとここに詰まってる。」これは、代表の亀谷が常々口にする言葉です。

亀谷氏01

ブランディングにおいても、非常に重要な役割を担う名刺。なぜ名刺にこだわるべきなのか。名刺にこだわることにはどんな意味があるのか。

こだわりを大切にする。それはブランディングそのものです。そしてブランディングを成功させるためには、お客様とのコミュニケーションが不可欠です。大学で学び、クリエイターとしてスタートしてから日本に戻ってくるまでのアメリカでの10年間、そして日本での数々のクライアントの皆様と培ってきた経験を基に、お客様それぞれのこだわりを共有し、最高の形で表現するお手伝いをしたい。

その入り口として、このブログでは、さまざまな視点からブランディングについてのヒントとなるポイントをご紹介できればと思っています。

まずはそのお手伝いをさせていただく亀谷の人となりを、名刺代わりにご紹介したいと思います。亀谷に、そしてGRAVITY ONEに興味を持っていただけたら、さらに直接名刺をお渡しできる機会をいただけたら、そんな嬉しいことはありません。

ブランディングを重視する大企業のエグゼクティブほど名刺にこだわる?

亀谷氏02

我々ロゴなどをデザインして展開するときに、最初に名刺を作ります。この最小サイズに、フォントとかロゴとかを含め、すべての情報が入っているから、ここで物事が決まればあとは楽です。狭い中にバランスよく、ここにどうやって世界観を創るか。デザインだけでなくて、印刷方法や紙の質や。名刺にあまりこだわっていなかった日本の会社にも、その重要性が伝わってきたかなと思っています。

アメリカの場合、ベンチャーキャピタルのキャピタリスト、投資家が、投資対象の3人ぐらいでやってる小規模な会社に対しても、名刺はちゃんと作れと言う。要するに名刺は、相手に渡すことのできるモバイルの看板、会社の看板だからです。

ある時、ある会社にすべてのロゴとかをVI(ビジュアルアイデンティティー)ガイドラインとして渡しました。もちろんその中に名刺も入っています。横型名刺がいいと思ったので、全社員に横型名刺ということで作りました。

ところが、後になって突然、役員のための縦型名刺が欲しいと言われたんです。僕は、それは昭和で終わってる話ですよ、と言いました。なぜってそれでは一つの会社が違う看板を掲げていることになるでしょう? 紙や印刷にこだわるのは良いけれど、デザインは変えてはいけないと。そうしたらお客様の逆鱗に触れてしまいまして。(笑)

でもしばらくして、やっぱり縦型はやめましょうと言っていらした。結局、部下が忖度していただけの話だったんです。

結局、これまでの仕組みがそうだったからそうしないと、という話だったのですが、何故これまでそうしていたのかを、自分たちでもう少し考えてみて欲しかったですね。

大事なのは、企業活動のあらゆるところでの一貫性。それが会社自体のコンセプトということなんです。

こうしたデザインは、一貫性どころではなくて統一。最低限のマナーです。毎回、見る度に違う看板を出されたら、そんな組織っておかしいなと思うでしょう?

デザインには2種類、二つの階層がある。

日本の会社では持っていないところも多いのですが、アメリカの会社は合理的で、必ずと言っていいほどスタイルガイドというものがきちんとあるんです。

デザインには、スタイルガイドに沿って何も考えず、そのまま作ればいいというデザインの分野と、おおいにお金と時間をかけてクリエイティビティに作りましょうという部分と二つの階層があります。

ある時、日本に支社のあるフランスの投資銀行から、自分たちの日本におけるデザインの質をチェックしてくれと言われたことがありました。言われたまま正直にダメ出しをしましたら、今度はフランス人の社長の逆鱗に触れてしまいまして。(笑) おそらく彼には自負があって、ダメ出しなどされるとは思っていなかったのでしょうね。

その時、僕が指摘したのはフォントだったんです。本国にはきちんとガイドラインがあるので概ねそれに則っているのですが、日本語のフォントがちょっと。それはあまりにも他のフォントとも合っていないし、これを使うのはやめた方がいい、と思うものでした。

プラットホーム状態の第一階層のところは、ガイドラインに沿ってそのままやればいいのです。ここには創意工夫は必要ない。しかしながら、日本ではまだそこで創意工夫をしようとする嫌いがありますね。そこは楽をして、本当に考えるべきこと、例えばサービスの改善、品質を高めるとか、そういうところに戦力を集中して欲しいと思います。

そのような知識、ブランディングの基本となる考え方は、アメリカで働いていた時に徹底的に叩き込まれたことのひとつでもありますね。

最初はデザインの勉強のためにアメリカに渡ったわけではなく……

アメリカ時代資料

19歳の時、日本の美大を受けたのですが落ちてしまって。もう一年勉強するつもりはなかったので、留学してしまおうと思い留学したわけです。

当時はあまり将来のことをリアルに考えておらず、漠然と映画監督になりたいなんて思っていました。正直なところ、単純に日本が狭苦しく感じていたんですね、若かったですから。

日本から逃げた先の理由付けとして映画監督とか、心理学にも興味があったので、心理学を勉強するのもいいかなとか。最初2年のコミュニティーカレッジで、リベラルアーツの教養科目を全部取得し、その後4年の大学に行こうと思っていました。

教養科目の中には美術のクラスもありまして、僕はその単位はわりとイージーにAプラスとか取れてしまったんですよ。なぜかと言うと、僕の両親は共に美術関係の人間で、父は現役のグラフィックデザイナーなんです。そういう家庭で育ちましたから、絵は本当に幼い時から得意でしたね。家の中に色々良い物もたくさんありましたし。

でも何でしょうね、当時の僕は反骨心と言いますか、同じ業界の人間には絶対ならないぞ! と。なるんだとしたら、アメリカで大成功して、誰もが知るもの凄いクリエイティブディレクターになって日本に戻ってくるんだ、ぐらいに思っていました。 ティーンエイジャーらしい世の中知らずの、ちょっと軽薄な発想だったと思います。(笑)

 

そしてこの後、アメリカに渡った亀谷には、数々のかけがえのない出会いと経験が待っているのですが……この続きは次のブログで。